マクダネルダグラス
F-15 イーグル



米海空軍はともに、10年間のベトナム戦争で空中戦専用の制空戦闘機の必要性を痛感した。また、このベトナム戦争での体験が、それまでの米空軍戦術戦闘機思想を原点へ立ち返らせることになる。初戦で戦闘爆撃機を護衛したF-100スーパーセイバーは、その任務を全うできず、護るべきF-105がMiGの奇襲を受け撃墜された。代わって投入されるのは米海軍が開発したF-4ファントムだ。米空軍は戦術戦闘機が不足しており、こうなるとメンツなどにこだわっていられない。

F-4は爆弾を満載する戦闘爆撃機として、また空対空ミサイルを搭載する護衛戦闘機として使われたが、2つの相反する任務を上手く併せ持ったF−4の空戦性能にも限度があった。そして、何より新鋭機といわれながら、F-4は戦線へ投入された1965年当時、すでに原型初飛行から7年が経っていたのだ。

ベトナム戦争中、米空軍は次期戦闘機開発へ着手する。ここで空軍が目指すのは真の意味での戦闘機、つまり制空戦闘機であり、核爆弾を含めた爆弾を運ぶ能力は完全に除外された。その結果、選定されたのがマクダネルダグラス社が提出したプランであり、1972年7月、イーグルの原型は初飛行を行う。

十分な滑走路が保証された空軍は、離着陸時の高揚力をさほど必要としなかった。いっぽう、F-14トムキャットのようなコンピュータ化されたVG(可変後退)翼が空戦中も最適の後退角を保つため可変翼機構分だけ重量増しというは、空軍の採用基準に当てはまらない。また、強力な火器管制装置APG-63を搭載しているが、F-15の場合は後席手を乗せない単座型だ。

その結果、F-14がもつ長射程ミサイル・フェニックスを複数の標的へ誘導する芸当はF-15にない反面、単座の設計が自動化の徹底へ大きく貢献している(F-15B、F-15Dといった一部の複座型は、教官同乗の訓練が主任務)。F-15の形状にはあまり曲線が見てとれない。これはマクダネルダグラスの社風とも言える。F-4の出現当初「醜い」と言われながら、それが世界の空にあふれると目は慣れるのだろう、今や誰もF-4を醜いと言わなくなった。

F-15の設計はドライだ。大迎角時の安全性向上を図る2枚の垂直尾翼も、じつに味気ない。強靱な降着装置が求められる海軍艦上機と比べ、F-15のそれはシンプルでか細く見える。そして、機首から突き出した風防がパイロット全周の視界の良さを示す。制空戦闘能力の徹底した追及が、こうした形状を生んだのだ。

エンジンはアフターバーナー点火時で10.6トンの推力を発揮するF-100ターボファンを双発配置し、代わって複合材が多用された機体は軽量化を徹底している。最近の制空戦闘機を評価する基準として推力重量比と呼ばれる数値があり、これは推力を離陸時重量で割ったものだ。F-15が1.25、F-14が0.76と言われ、この差はF-14の複座、VG翼機構による重量増し、搭載エンジン自体の非力が原因である。

完成間もない1975年、F-15は上昇高度と上昇時間の世界記録を更新した。当時流行のストリーキングをもじって「ストリーク・イーグル」と名づけられたこの作戦のため、ぜい肉ともいえる機体外部塗装まで落としたF-15が全力で高空へ駆け上がり、そこで証明された優秀な上昇性能は、後のSDI(戦略防衛構想)で注目を浴びるASAT(エイサット)衛星破壊ミサイル発射基地としての採用に結びつく。

F-15の空戦用兵装は、長射程空対空ミサイル・フェニックスこそ持たないが、胴体下部へ半埋め込み式スパロー4発(F-4で初めて採用された空気抵抗を減らすこのアイデアは、F-14やF-18でもこぞって採り入れられている)と翼下パイロンへサイドワインダー4発を装備する他、左主翼付根には20ミリ口径のM61バルカン砲を固定装備している。

なお、最初のモデルF-15Aとその複座型F-15Bが燃料搭載量の不足を指摘されたため、後続のF-15CおよびF-15Dから搭載量は20パーセント増やされた。また、F-15Aの設計段階で胴体側面へぴったり張りつく燃料タンク「FASTパック」を考案したマクダネルダグラス社が、それを米空軍へ提案するものの実用部隊は持て余し、結局主翼下2個、胴体下1個の増槽で落ち着いたわけだ。



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