グラマン
F-14A トムキャット



1980年代から1990年代にかけて、米空軍のF-15イーグルと並び西側最強を誇ったのが、米海軍主力戦闘機F-14トムキャットだ。この米海軍初の実用VG(可変後退)翼戦闘機F-14の開発は1969年から始められたが、その前に一度、米海軍はVG翼戦闘機の開発でつまずいている。

1963年、当時の国防長官マクナマラのお声がかりで、米空海軍が共通の基本型を持つF-111を採用させられかけた。空軍型F-111Aは長距離侵攻戦闘機、海軍型F-111Bは艦隊防空戦闘機として開発が進む。しかし、任務の違いは形態が変わって当たり前の上、重量増加は長大な滑走路を使える空軍と比べ、空母が基地の海軍へは死活問題だ。じっさい、F-111Bのほうは減量で失敗し、モノにならなかった。

マクナマラが打ち出す機種の統一は、いっけん合理的な計画のようでありながら、軍内部できわめて評判が悪かったのである。もともとフォード社長から抜擢されたマクナマラは、乗用車の生産ラインをそのまま適用できると考えていたが、同じプレスの基本ボディーへ違うモールやグリルを取り付け、別の車種として売る安易な発想は、複雑な軍事事情と合うはずもない。

ゼロに立ち返った米海軍が、F-111Bで得たVG翼技術を活かし、独自の艦隊防空戦闘機の開発へ着手する。TF30エンジン、AWG-9火器管制装置、フェニックス長射程空対空ミサイルなどは、F-111Bで開発済みだった。これらがまったく新しい機体に組み込まれてゆく。機体は胴体と2つのエンジンを前後にずらして並べる無駄のない設計で、大迎角時でも利きのいい双尾翼形式を採り、前任のF-4ファントム同様、後席へ強力なレーダーを管制するレーダー迎撃士官(RIO)を乗せる2座の設計だ。

グラマン社内の公募でトムキャット(雄猫)と名づけられるF-14が採用したVG翼は、速度や高度によって最適の角度をコンピュータが選んで可動する。空戦中も後退角を最適の位置へ設定し、最高の駆動性を発揮できるシステムだ。手動でVG翼を操作するMiG-23フロッガーだと、こうはいかない。

また、空対空戦闘を重視した結果、F-14の兵装は選択肢が豊富である。まず、セールス・ポイントとなっている長射程空対空ミサイル・フェニックスは、機上のAWG-9火器管制装置、および艦隊やE-2C早期警戒機とリンクしたNTDS(海軍戦術データシステム)で管制され、同時に2つの標的を補足した中から最適なものを選んだり、6つの標的へ個別の誘導が可能だ。

このフェニックスを最大6発まで搭載できる他、同時に赤外線誘導空対空ミサイル・サイドワインダー4発を搭載するか、長距離レーダー誘導ミサイル・スパローとサイドワインダーを組み合わせることもできる(別表参照)。さらに、固定武装として機首へM61バルカン機関砲を持つ。

その他、兵装ではないが、全生産機中の49機はフェニックス用ランチャーへKS-87固定カメラ、KA-97パノラミックカメラ、ADD-5赤外線ラインスキャナが内蔵されたTARPS(偵察ポッド)を装着し、コクピットにも関連スイッチやファインダーを取り付けた戦闘・写真偵察兼用型へと改造されている。TARPS型F-14の導入で、空母上から専従の写真偵察機は姿を消した。

すでに450機以上のF-14が米海軍に採用され、11隻の空母へ2個飛行隊(1個の定数は12機)づつ配備されている。アメリカ以外では、革命前のイランがオイルダラーに物を言わせ80機のF-14を購入しながら、革命後は対米関係の悪化から部品補充が底をつき、じっさい可働するものは少なくなっているようだ。

ちなみに、F-14が米艦隊へ配備されたのは1972年10月であり、ベトナム戦争の時は間に合わず、かろうじて1975年のサイゴン没落時のアメリカ人撤退で上空援護にあたったのが唯一の作戦参加である。もちろん、自慢のフェニックスを使う機会はなかった。最初の戦闘らしい戦闘といえば、1982年のリビア沿岸シドラ湾上で空母ニミッツ所属F-14とリビア空軍スホーイSu-17それぞれ2機づつが行った空中戦だ。VG翼戦闘機同士の空中戦としてはこれが世界最初となり、結果はF-14の完勝であった。



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